こんにちは! 看護学生室です。
梅雨も明けて、夏の日差しが一段と厳しくなってきました。
学生の皆さんは夏休みも始まった頃でしょうか。
7月16日、奨学生フィールドワークとして国立ハンセン病資料館、被爆者の声を受け継ぐ映画祭にそれぞれ参加してきました。
ここでは国立ハンセン病資料館についてお報せします。
まだ梅雨明けしていない日でしたが、照り付けるような日差しが眩しい日でした。
東京都東村山市にある国立ハンセン病資料館は、駅からバスで10分ほど揺られた多磨全生園の中にあります。緑が多く、病院が多く立ち並ぶ道を進むと国立ハンセン病資料館へ到着しました。深い緑の森が広がる、静かな場所です。
国立ハンセン病資料館はきれいな外観の建物でした。
ところで、ハンセン病という病気をご存知でしょうか? 「らい菌」という細菌によって引き起こされる感染症です。感染すると末梢神経や皮膚が侵され、感覚異常(熱い、冷たいなどの感触が分からなくなる)や皮膚のただれ、視力障害が起きることもある病気です。症状によっては関節が曲がって変形したり、顔面神経の麻痺が起こることもあります。
栄養状態によっては誰でもかかりうる病気で、感染力自体はとても弱いですが、外見に影響が出ることもあるせいか古く平安時代頃から「業病」「天刑病」とも呼ばれ、けがれとされ差別を受けてきました。
日本では、1907年(明治40年)から1996年(平成8年)までの90年にわたり、国の強制隔離・患者撲滅政策の対象とされ「人間」として生きる権利を奪われてきました。
そんな歴史の生き証人である、語り部平沢保治さんの講演映像を見せていただきました。本来は登壇されてのお話しのところ、このところ体調不良とのことで映像での語りを拝聴します。
かくしゃくとした平沢さんの語りでは、日本での強制隔離に関する生々しい声が聴かれました。1907年(明治40年)に制定された法律「らい予防に関する件」から始まりました。らい病は国の恥のように扱い、1931年(昭和6年)には「らい予防法」と名前を変え、「民族浄化」「無らい日本」とうたい、すべての患者を収容隔離し新たな患者を出さないようにと隔離政策が進んでいきました。
平沢さんの語りの中にも、劣悪な環境を揶揄し「お召列車」と呼ばれた収容所への輸送や、らい病患者が出た家が真っ白になるくらい消毒され、その村で暮らせなくなったり自ら命を絶つ人もいたという悲しい歴史が聞かれました。
まるでその人の人生をすべて否定するようかのような政策に振り回された患者が大勢いたこと、隔離された施設の劣悪な環境でさらに病状が悪化した人がいたこと、聞けば聞くほど悲しい気持ちにさせられます。
特効薬「プロミン」が発見されても患者たちには行き渡らず、患者たちは国とのたたかいを続けます。そして長きにわたった差別を断ち切る「らい予防法廃止」は、1993年(平成8年)に制定されました。その間も、強制隔離政策は続いていたのです。
多磨全生園は今でこそ、季節ごとに花を楽しめる美しい森ですが、強制隔離の場所であることをまざまざと見せつけられた気分でした。
資料館のある建物の横には、納骨堂が静かに佇立していました。森の中は日差しが届かず、ひんやりとして静かです。人間として生きることをはく奪された人たちがここに眠っている、と思うと、胸が痛みます。
差別などない世の中だと思いたい平成の御世ですが、こんな近くにひどい差別を受けた人々がいる。そしてその偏見はいまだ断ち切れていないことを強く実感しました。
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