こんにちは! 看護学生室です。
気が付けば11月もそろそろ終わり、本格的な冬の到来を感じる季節になりました。
初雪や山の冠雪なんてニュースを見ると、もうすっかり冬の気分ですね!
それと同時に、乾燥や冷え込みで体調も崩しがちな季節です。
風邪などひかずに元気に年末を迎えたいところですね。
今回のブログでは、11月17日に行なわれたNEF(Nurse Egg Festival)の様子をお伝えします。
これは、関東地協(東京、千葉、茨城、栃木、神奈川)の奨学生が集まる学習企画です。
第28回のテーマとして選ばれたのは「差別をなくすためには?~水俣病の実態から学ぶ民医連の活動~」です。
講師には、熊本民医連で長らく活躍された山近峰子さんに快諾頂き、熊本県から
7時間かけて(!)はるばるお越しいただきました。
どんなお話が聞けるのか、期待が高まります!
山近さんは生粋の熊本っ子。「熊本弁しかしゃべれません」と仰る通り、やわらかなイントネーションの口調からも人柄が垣間見えます。
44年間務めた看護師を引退、今は大好きな掃除に明け暮れる毎日をお過ごしとの事。
山近さんが看護師として、また一人の熊本県民として見つめてきた「水俣病」のお話をしていただきます。
1956年(昭和31年)に熊本県水俣市で原因不明の病気の発症が確認されたことを発端に、水俣病は発生しました。
水俣市にある「チッソ株式会社」の工場排水の中に、アセトアルデヒド廃水が含まれていました。
それを無処理で海に流していた結果、海棲生物が汚染し、その魚や貝を採って食べた人間や生物の身体が病に侵されたことが原因です。
世界で初めて食物連鎖によって発症した病気であること、また毒物は胎盤を通過できないと思われていたが、
水俣病に罹患した妊婦の子供がやはり水俣病を患っていたことから(胎児性水俣病)、世界からも注目を集めました。「公害病の原点」と言われるのもこのためです。
水俣病は、有機水銀により脳神経が傷つき、感覚障害、視野狭窄、運動失調、聴力・構音障害などを発症する病気です。
1953年に熊本県で生を受けた山近さん。
その頃の水俣市では、小児性水俣病(よだれを垂らす、奇声をあげる)の子供が身近にいたり、家畜などの生き物が炎に飛び込んで死んでいく姿を見て育ったので、日常の当たり前の光景としてとらえていました。友達から声をかけられても「恐ろしか!(怖い)」と思っていました。
山近さんの生活が一変したのは中学一年生の冬。父の水俣病発症です。父は腕の良い畳職人で、畳代の替わりに魚をもらう事などもあり、魚を口にするのは当たり前という食生活でした。父の仕事で支えられていた家計は破綻し、ご本人も実家の貧しさから高校進学を諦め、准看護学校へと進みます。うちにはお金がないこと、父が働けないことを子供心に辛く、憎くさえ思ったこともありました。
畑仕事で1日200円ほどの稼ぎで暮らす母に、初任給より1,000円を渡したところ、涙を流して喜ぶ姿を見て親孝行をしたと思うかたわら、貧乏により心が荒むのも感じていました。父が水俣病の申請をし、1971年に認定を受けます。すると、同僚などからも妬みの声が聞こえるようになり、「お金がもらえていいね」と様々なところで声をかけられることに嫌気がさし、水俣病、地域、全てをなげうって大阪にへ家出。しかし兄に連れ帰られ、2泊3日で家出は終わってしまいました。
そんなころ、今後長きにわたって勤務することとなる、民医連の病院と出会ったことで、山近さん自身の考え方は徐々に変わっていきます。
訪問看護の制度が全くなかった時代に、自宅まで往診に来てくれる医療スタッフ。
父がかたくなに入院を拒否したところ、「それなら自宅で」と、住み慣れた自宅で臨終を迎えられたことなどから「患者の立場に立ち、寄り添う看護」を実感していきます。
地元に住んでいながら、水俣病のことを知らなかったと気が付いた山近さんは、右も左もわからずに学習会へ参加。
水俣病を招いたチッソという会社は、地域住民の雇用や経済活性を支えていたため、県や国でも工場のやり方に口を出すことができなかったこと。
命よりも金が大事だと思う人たちがいること。儲けを出し、それに価値を見出す資本家や政治家の存在。
強くないと生き残れない、そんな構造が透けて見えてきます。
強いものに巻かれるのではなく、被害者が救済を求めて立ち上がることが必要だと感じた人たち。
裁判を起こし、解決のため被害の事実を示し、立証しなければなりません。
だからこそ、患者の掘り起こしをするための健診は必要です。
水俣病の発症から60年以上が経ちますが、現在でも被害に苦しむ患者さんは声を上げられずにいるかもしれません。
そういった人に寄り添うのか、切り捨てるのか……と、山近さんは投げかけます。
ご自身の体験に立ち返り、水俣病の発症以前から学校ではいじめがあったことを振り返り、差別とは簡単に拭えるものではないと指摘します。人には立場がそれぞれにあり、違いがあって当然です。
そして、「何も知らない」ことから来る偏見があるという事、山近さん本人も「両親が水俣病認定患者になることで補助を受けるのは、貧乏だからだ」という偏見に気が付き、恥ずかしさを覚えたという事です。
人は教えられたことをそのまま鵜呑みにするのではなく、様々な書物やニュースから社会を知ることができます。
人と出会って刺激を受けることもあります。
水俣病を通じて、命や人権を大切にする立場、そして社会保障制度に照らして安心な生活が営めているのかを考え、
困っている人に寄り添い共にたたかうことが、民医連看護のあるべき姿ではないか、とお話しされました。
時々、学生たちに質問を投げかけながら、
「眠くなったら机の上のお菓子でもつまみながら聞いて下さい」と言ってくれる気さくな山近さん。
時折、涙をにじませて語る姿は印象的で、また「60年前に起きた水俣病なんてもう過去のこと」という認識を吹き飛ばすような力を持った講演をしてくださいました。
昼休憩を挟んで、頭を切り替えるためにちょっとレクを挟みます。
○×クイズでは「ペッパーとは英語ではピーマンのことである」とか、
「歩行者用信号の記号の人は最近ちょっと太った」とか、
わかんないよー! という問題ばかり。グループで頭をひねります。
なんと、全問正解チームも?!
お次は「ア」から始まる国名をたくさん挙げて、数を競うゲーム。
アメリカ、えーっとアラビアは国? じゃあアフリカは? アラスカ?? なんて、珍回答も続出?!
上位チームには豪華景品付きでした♪
リフレッシュしたところで、グループワーク再開です。
「差別をなくすためには何ができますか?」というテーマで話し合います。
差別を完全になくすことは非常に難しいと、先ほどの講演でも考えた学生も。
それでも、差異を認め合う事や、弱者をはじき出すのではなく手を差し伸べていく社会を作ることで、偏見や差別は減るのではないか……といった話し合いになりました。
一日一緒に過ごした皆さんとの話し合いはだんだん打ち解けた雰囲気もあり、真剣な中にも笑顔がこぼれるような、
楽しそうな姿も見受けられました。
また、自分から知識を得て、正しい知識を持つことで偏見のまなざしは変えられること、また周囲にそれを伝播させていくことの大切さなどが意見交換されました。
1日かけての学習会。難しいテーマに取り組んだ皆さんは、どんな感想を抱いたのでしょうか?
「無知が偏見を生み、人を傷つけていくこと」といった認識、「社会を知ることで自分の視野や知識を広げていくことの大切さ」を改めて感じ、自分はどうやって考えて動いていただろう……と自分の身を振り返るきっかけになりました。
差別はそう簡単になくせるものではないかもしれませんが、その人の置かれた立場や疾病を知り、その人にとって必要なことやものを共に創りあげることができること、先達が築いてきたものを受け継いでいくことの大切さを再認識したように思います。
学習会に参加された皆さん、お疲れ様でした。
今日の講演を聞いて、これからの実習や学習に活かしてもらえたらと思います。
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